近年では、通夜・葬儀を行い、火葬をすることが一般的ですがもちろん、昔からそうだった訳ではありません。
時代が変わるごとに「死」に対する考え方や宗教に対する考え方も変化していきました。
縄文時代には屈葬という埋葬方法が行われていました。
屈葬とは、その名の通り、体を曲げた状態で埋葬することです。
弥生時代になると、屈葬から伸展葬が一般化しました。
屈葬とは逆で体を伸ばして埋葬する方法です。
縄文時代にも一部の特権階級には伸展葬が許されていましたが、弥生時代には庶民の間でも一般化しました。
この頃から墓が見受けられるようにもなったとされています。
古墳時代では、支配階級の埋葬方法が大きく変わり、古墳と呼ばれる大型の墓が全国的に広がりました。
大型の前方後円墳が数多く登場し、その多くは豪族1人を埋葬する為に作られました。
飛鳥時代になると葬儀文化において大きな変化が起こりました。
聖徳太子が自分の墓を建てた記録が残っており、それも古墳ですが「薄葬令」によって古墳の大きさや築造期間、人員など細かく制定され、大型の古墳は作られなくなりました。
「大宝律令」以降は上級身分を持つ者だけに古墳を作ることが許されたり、庶民に対しても埋葬に関する規定が定められました。
また、初めて「火葬」が行われたのが飛鳥時代です。
しかし、まだ一般的には広まらず、特権階級のみで行われていたようです。
奈良時代に入ると墓の作る場所の制定が行われました。
平安時代には、高野山に火葬した骨や遺髪を納めるという「高野納骨」が盛んに行われました。
鎌倉時代になると浄土宗や浄土真宗といった鎌倉仏教が一般的に普及し、それに伴い火葬も広く利用されるようになりました。
鎌倉仏教が広まったことにより、仏教の死生観も一般的に知られ、本格的な葬儀もこの頃から行われるようになりました。
室町時代では寺院の境内に墓地を設ける例が数多くあります。
住人たちの寺院の本堂近くに墓を建てて、追善供養を受けたいという願いからであり、これが寺院墓地の始まりです。
江戸時代頃には大都市圏を中心に葬儀に使われる仏具等を販売のみならず、レンタルも行われるようになりました。
ご遺体の処遇のみならず、故人とのお別れも重視されるようになりました。
また、近親者や地域の方が棺を担ぎ、葬列を組んで埋葬地まで送る「野辺送り」も行われていました。
明治時代に入り、全ての寺院墓地が国有地となり、法律によって自葬祭が禁止されました。
これにより、葬儀は僧侶や神主によって行われることになりました。
また、この頃仏教より神道を推奨するようになり火葬禁止令が出され、火葬が行われなくなりました。
しかし、火葬再開を望む声が多かったことに加え、土葬用の土地の管理が難しかったことから、火葬禁止令は2年で撤回され、衛生面、火葬の有用性を認め、火葬が義務化されました。
喪服が黒になったのもこの頃です。
大正時代に入ると霊柩車が庶民の間でも使用されるようになり、現代の葬儀の原型は大正時代の頃にできたと言えるでしょう。
こういった時代の変化とともに葬儀、埋葬方法も変わってきました。
今は形、場所、物等全てが整っていますが昔は自分たちが全て行っていた…
考えられないですし、すごいの一言です。
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